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高麗博物館

ホットクを手に入れて ほくほく顔の帰り道。

「高麗博物館」の看板の文字に引き寄せられ
建物の中へふらっと入りました。


「文禄・慶長の役と日・朝の陶磁」
という企画展開催中でした。(6月4日~8月3日)

「こちらにおいでの動機は?」
と質問されて
「通りすがりの偶然です」
と正直に答えるしかありませんでした。

見回すと壁にパネルがタラタラ……
(8枚以内だったと思う)
ガラス内に器がちょこっと……の貧相な室内。

え!これで入場料400円?!と思ったけれど
「説明はいりますか?」
の一言で
その後、ものすごく楽しい時間を過ごせました。



●文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)
文禄・慶長の役は 1592年(日本文禄元年、明および朝鮮万暦20年)
から1598年(日本慶長3年、明および朝鮮万暦26年)にかけて行われた
日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と李氏朝鮮および明の軍との
間で交渉を交えながら朝鮮半島を戦場にして戦われた戦役である。
      <ウィキペディアフリー百科事典より>


●陶器・磁器の違い
簡単に言うと陶器は土をこねて作った器で
時期は石を細かくして作った器
詳しくは こちらに



<企画展パンフレットの一部抜粋>

●文禄・慶長の役の前、
日本では侘び茶の発達とともに高麗茶碗が流行していました。
そのあおりで、西国の大名はそれを造る朝鮮陶工を
文禄・慶長の役の時に拉致してきました。
それにより、九州・山口の窯業は発達し、とりわけ有田での
陶器の生産は日本の窯業そのものに大きな影響を与えました。
一方、朝鮮半島では多くの投陶工たちの拉致により
窯業は壊滅的な打撃を受けました。

●解放後(戦後)文禄・慶長の役以降に消滅したといわれる
朝鮮の粉青沙器(ぷんちょうさき)が、400年の沈黙を破って
その姿を現しました。
よみがえった粉青とその精神をどのように評価するか……
陶工の拉致につながった高麗茶碗の評価の仕方を超えた
新しい関係構築のための評価の仕方が今問われています。
この企画展では、唐津焼、萩焼、薩摩焼、有田焼の歴史を
たどりながら その問いに対する回答を探ろうと心がけました。


●ビックリしたこと
・侘び茶椀は日本製ではなかった
・侘び茶椀は高麗では普通一般の茶碗として使われていた
・薩摩だけに記録が残っていた
・拉致する時、陶工とその家族まで拉致してい た
・密貿易、模造品などのキ-ワードの存在
・高麗博物館はボランティアの力で運営するNPOだった。

案内された女性は上品で
「ボランティアを募集していまにす」
とおっしゃった時に
(私もこの女性ついて一緒にボランティアをしたい)
と思いましたが、ちょっと遠いなと考え直しました。

最後にお目汚し。
インサドン工芸館では3000円で韓国衣装を着て写真撮影できますが
ここ、高麗博物館では200円で衣装を借りて撮ってもよいのです。
それがこれ↓

案内された女性は上品で
「ボランティアを募集していまにす」
とおっしゃった時に
(私もこの女性ついて一緒にボランティアをしたい)
と思いましたが、ちょっと遠いなと考え直しました。

最後にお目汚し。
インサドン工芸館では3000円で韓国衣装を着て写真撮影できますが
ここ、高麗博物館では200円で衣装を借りて撮ってもよいのです。
それがこれ↓
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プロフィール

・香菜・

Author:・香菜・
日常のいろんなことを
書いています。

以前は お花や ビーズ、
洋画や 韓流ドラマ、
外国料理が好きでした。

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